序章:体からのSOS信号

突然の怪我、火傷、あるいは病気…。私たちは日常生活の中で、さまざまな「痛み」を経験します。この不快な感覚は、単なる嫌な体験ではなく、私たち自身の体を守るための重要な「SOS信号」です。しかし、一体なぜ人間は痛みを感じるのでしょうか? どのようにして、この信号は私たちの脳に伝わるのでしょうか?
本記事では、痛みの発生から脳での知覚に至るまでのメカニカルなプロセスを、神経伝達物質という「信号」を追いかける「信号追跡」を通じて徹底的に解き明かします。そして、痛みの本質を理解することで、その対処や治療の可能性についても探ります。
1. 容疑者の正体:侵害受容器と「痛みセンサー」の活性化

私たちが痛みを感じる最初のステップは、体組織に存在する特殊な神経細胞、「侵害受容器(nociceptor)」の活性化です。これこそが、痛みの発生源となる「痛みセンサー」です。
🔹 秘密兵器:侵害受容器
侵害受容器は、皮膚、筋肉、内臓など、全身の様々な場所に分布しています。これらは、通常の触覚や温度感覚とは異なり、熱、強い圧力、あるいは特定の化学物質といった、組織に損傷を与える可能性のある刺激のみに反応するように特化しています。
🔹 活性化のスイッチ:細胞損傷と化学物質の放出
例えば、指を切ったとしましょう。この時、細胞が破壊され、細胞内の様々な物質が細胞外に放出されます。これらの中には、ブラジキニン、プロスタグランジン、ヒスタミン、セロトニン、ATP、水素イオン(H+)など、侵害受容器を直接刺激する「発痛物質」と呼ばれる化学物質が含まれています。これらの発痛物質が侵害受容器に結合することで、痛みの信号伝達のスイッチがオンになります。
2. 犯行の瞬間:電気信号(活動電位)の生成と伝達 → 痛みの種類の分岐点

発痛物質によって活性化された侵害受容器は、その刺激を電気信号へと変換します。
🔹 イオンチャネルの役割
侵害受容器の細胞膜上には、特定のイオン(ナトリウムイオンやカルシウムイオンなど)を通過させる「イオンチャネル」というタンパク質が存在します。発痛物質が結合すると、これらのイオンチャネルが開き、イオンが細胞内外を行き来することで、細胞膜の電位が変化します。
🔹 最終兵器:活動電位の発生と伝達速度の違い
この電位変化が閾値を超えると、「活動電位」と呼ばれる瞬間的な電気信号が発生します。この信号は神経線維を伝わりますが、その線維の種類によって伝達速度が異なります。これが、私たちが感じる痛みの種類を分けます。
| 痛みの種類 | 神経線維 | 速度と特徴 |
| 鋭い痛み(一次痛) | Aデルタ線維(有髄) | 伝達速度が速く、刺激直後に感じる、「チクッ」とした痛み。 |
| 鈍い痛み(二次痛) | C線維(無髄) | 伝達速度が遅く、数秒後に感じる、「ズキズキ」「ジンジン」とした痛み。 |
このように、痛みの種類によって神経線維の太さや構造が異なり、信号の到達時間に差が生まれるのです。
3. 痛みが止まらない理由:神経伝達物質による信号の中継と脳による制御

生成された電気信号は、脊髄を経て脳へと伝わります。この過程で重要な役割を果たすのが「神経伝達物質」です。
🔹 シナプスでの情報伝達
神経細胞と神経細胞の間には「シナプス」という隙間があります。活動電位が神経終末に到達すると、そこからグルタミン酸やサブスタンスP、CGRP(カルシトニン遺伝子関連ペプチド)といった様々な神経伝達物質が放出されます。
🔹 脳への指令:神経伝達物質の連鎖
これらの神経伝達物質は、次の神経細胞の受容体に結合し、その神経細胞に再び活動電位を発生させ、信号を脳へとリレーします。脳では、この信号が視床、大脳皮質、扁桃体など様々な部位で処理され、「痛み」という感覚として認識されるのです。
🔹 痛みの中継を抑制する「下行性疼痛抑制系」
しかし、私たちの体には、痛みが強くなりすぎないよう、脳から脊髄へと降りてきて信号伝達を抑制するシステムが存在します。これが「下行性疼痛抑制系」です。脳は、エンドルフィン(内因性オピオイド)やセロトニン、ノルアドレナリンといった神経伝達物質を放出することで、脊髄で次の神経細胞へのリレーをブロックし、痛みの感覚を和らげます。このシステムがあるため、緊急時や興奮時には、多少の怪我でも痛みを感じにくくなるのです。
4. 痛みと快感、そして慢性痛の化学的な違い

痛みと快感は、どちらも私たちの行動を左右する強力な感覚ですが、その発生メカニズムや関与する神経伝達物質には明確な違いがあります。
🔹 関与する神経伝達物質の違い
【痛みの信号】
- 主な神経伝達物質: グルタミン酸、サブスタンスP
- 役割: 神経の興奮、体に対する危機回避の警告としての機能。
【快感の信号】
- 主な神経伝達物質: ドーパミン、エンドルフィン、セロトニン
- 役割: 報酬系の活性化、生命維持に必要な行動を促すための強化作用。
🔹 慢性痛のメカニズム:中枢性感作
怪我や病気が治癒しても痛みが続く「慢性痛」は、単なる組織の損傷だけでなく、神経系の異常な変化が関与しています。特に、脊髄において痛みの伝達に関わるグルタミン酸受容体(NMDA受容体など)の感受性が高まりすぎる現象が知られており、これを「中枢性感作」と呼びます。この状態になると、普段は痛みを感じないような弱い刺激に対しても、脳が「痛み」として認識するようになり、痛覚過敏に陥ってしまうのです。
5. 科学に基づいた痛みの対処法と治療法

痛みのメカニズムを理解することで、その対処や治療の可能性が広がります。
🔹 戦略A:発痛物質の生成を抑える(炎症抑制戦略)
非ステロイド性抗炎症薬(NSAIDs)は、プロスタグランジンなどの発痛物質の生成を阻害することで痛みを軽減します。これは、痛みの根本原因である炎症反応を抑える戦略です。
🔹 戦略B:神経伝達を遮断する(局所麻酔戦略)
局所麻酔薬は、神経線維のイオンチャネルをブロックし、活動電位の発生や伝導を阻害することで、痛みの信号が脳に伝わるのを防ぎます。
🔹 戦略C:痛覚を抑制する・調節する(中枢神経作用薬戦略)
- オピオイド系鎮痛薬は、下行性疼痛抑制系でも利用されるオピオイド受容体に作用し、痛みの信号伝達を強力に抑制します。
- 抗うつ薬や抗てんかん薬は、セロトニンやノルアドレナリンなどの神経伝達物質のバランスを調整したり、中枢性感作に関わる神経の興奮を抑えたりすることで、特に慢性痛の治療に利用されます。
まとめ:痛みは体からの「生化学的メッセージ」
なぜ人間は痛みを感じるのか?
それは、組織の損傷によって放出された発痛物質が侵害受容器を刺激し、電気信号が神経細胞を伝わり、さらに神経伝達物質(グルタミン酸、サブスタンスPなど)によって脊髄から脳へと信号が中継されるからです。
痛みは、私たちの体が発する「生化学的なメッセージ」であり、それに対する脳の本能的な防御反応なのです。
この生化学的・神経科学的な知識を活かせば、痛みの本質をより深く理解し、適切な対処や治療へと繋げることができるでしょう。
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